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●東日本大震災:石巻ボランティアの報告

三津野 真澄

2011年3月11日、M9.0の巨大地震が発生した。毎日報道される現地の悲惨な状況。私はもう居ても立ってもいられない気持ちになり、発生8日後の3月19日、ボランティアとして現地へ飛び込んだ。行き先は壊滅状況となった、宮城県石巻市。
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前夜18日に出発の予定で準備を進めていたが、現地への道路が閉鎖中との情報が入り、一日遅らせての出発となった。同行しようという仲間2名(男女各1)も見つけた。
準備したのは、専用の携行容器に入れたガソリン40リットル(現地は極めてガソリン不足で給油は不可能であった)、大量の水と食糧(自分用と現地支援用)、テント・寝袋・炊事用具一式、ヘルメット、軍手とゴム手袋、支援用物資としてタオル。これは担任をしているクラスで呼びかけて、生徒に持ち寄ってもらった。こちらで準備したメッセージカードに一言ずつ書いてもらい、現地へ持っていくことにした(写真1)。

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写真1 生徒が持ち寄ったタオルにはメッセージをつけ避難所へ

 
 
大量の荷物を積み、19日(土)の午後に石川県を出発。北陸自動車道と日本海東北道を使って北上し、荒川・胎内ICで下りて山形と仙台経由で石巻を目指す。東北の高速道路は当時、緊急車両以外は通行禁止だった。
我々が新潟県に入ると多くのスタンドが閉鎖中、山形県ではさらにコンビニも全て閉店し町全体が暗い。宮城県に入ると道がガタガタとなり、仙台から先は道路の両側に瓦礫が山となる。いよいよ被災地に近づいていると実感。やがて裏返しになった車、道路に乗り上げた船を避けながらの運転を強いられ、目的地の石巻には夜中2時にようやく到着。ここまで10時間以上かかった。石巻での救援活動の中心である石巻専修大学、その駐車場の一角にテントを張りとりあえず眠りについた。

夜明けとともに自衛隊や米軍などのヘリが頭上を飛び交い、とても寝ていられない。飛び起きてすぐに支度。まもなく到着したのは救援物資を満載したトラック。しかし荷下ろしをする人がおらず、すぐ手伝うことになった。見る見る間にどんどんトラックが到着し列となるが、いずれもドライバー1名、必死で荷物を下ろし、物資センターとなっている石巻専修大学に運び入れ荷分けをする。あっというまに広い部屋がいっぱいとなっていく。
一段落したころ、大学内に設置されたボランティアセンター(この日にオープンした)でボランティア登録した後、小型トラックに避難物資を積んで避難所へ配送する仕事をすることとなった。最初に行ったのは石巻市街地にある中学校。1000名を越える方々が避難しているという。ここで現地の方に「何が必要な物資ですか」と尋ねた。水、毛布、衣類、紙おむつ、トイレットペーパー、などという返答を想像していたが、返ってきた答えは「車椅子」、正直びっくりした。私たちが思いつくような物資はすでに潤沢に届いているという。被災者にはお年寄りが多いため、車椅子が緊急に必要とのことだった。幸いに車椅子を2台持参していたので、無事下ろすことができホッとした。その後、2つの避難所を回ったが、それぞれでニーズは異なり、きめ細かな対応が必要とされることを痛感する。
3つ目に訪問した避難所は宮城県立石巻高校。ここは体育館2つと剣道場が被災者の方々で満杯だった(写真2)。

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写真2 避難所はどこも満員(宮城県立石巻高校)

グランドでは自衛隊が野営し、炊き出しを行なっている。運営指揮はここでも先生方だ。私は当初、避難所でのお手伝いが必要かと思っていたが、実際には避難所となっている各学校の先生方が運営され、どこでも生徒達が働き手となっていた(写真3)。統率がとれ混乱も無く、整理整頓も行き届いている。本当に素晴らしいと実感した。

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写真3 避難所ではたらく中学生

いったん石巻専修大学内に設置されたボランティアセンターに戻る。しかし午後からは特に仕事はありません、とのこと。そんなはずは無い。これまで3回行った地震ボランティア(中越、能登半島沖、中越沖の各地震)では、仕事の中心は家屋の片付けだった。しかし今回は1件も依頼が入っていないという。実はこのボランティアセンターは津波の被害を受けない高台にあり、実際の被災地からは5kmほど離れているため、住民のニーズを掴めきれていないように感じた。そこで我々は津波被害地へ出向きボランティアを必要としている人たちがいないかどうか、町を歩きながら仕事を探すことにした。
津波被害を受けた石巻市街地。その街角で瓦礫の木材を燃やしてご飯を炊いている人たちから紹介され、寝たきりのお年寄りを自主的に預かっている避難所に赴く。そこには救援物資はほとんど届いておらず、被災した人々が家から持ち出せる物資を持ち寄って生活している様子だった。
そこで「私たち石川県からボランティアに来ました。なにか必要な仕事はありませんか?」と尋ねると、みなさん顔を見合わせて必要ない、とおっしゃる。そんなハズはないと思い「何でもやりますよ」「‥‥‥」「津波で家に入った泥をかき出しますよ」「‥‥‥」「遠慮しないで下さい、ボランティアだから無料です」ここまで言って始めて、遠慮しがちに一人の女性が「じゃウチに来てもらえますか」
向かった先は60年間続けてきたという小さな中華料理店。1階奥の調理場まで津波が押し寄せ、家具や食器が散乱し泥水に埋まっている。手当たり次第、泥水から引き上げ外に出し、泥水も必死でかきだす。3人で4時間、半分ぐらいの処理が終わったところで真っ暗となり(停電中のため)作業終了(写真4)。先の避難所に戻ると「明日かならずウチへ来てください」「次はウチ」「その次に来て‥」とあっというまに順番ができあがった。恐らくボランティアを依頼することに慣れておらず遠慮していたのだろう。

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写真4 津波の泥をかぶった家とそこから出した家具

その夜は再びテントに戻ったが、救援物資を満載したトラックが到着するたびにテントから飛び出し荷下ろしの手伝いをした。いずれのトラックもドライバーひとりではどうすることもできない様子だった。

翌日、朝から依頼された家に向かう。ひっくり返った家具を起こし泥をかき出す。塩分を含む泥はねっとりと重く腰が悲鳴を上げるが、「次はウチにきて」と頼まれれば休めない。このおばあさんは80歳で一人暮らし、この家を今後どうしていくのだろう‥‥。
石巻は港周辺の低地は津波で壊滅状態。2100人が死亡、2700人が行方不明(原稿を書いている3月27日現在)。私は失礼とは思いつつ、伺ったお宅のご夫婦に尋ねてみた。「どうしてこれほど多くの方が亡くなったのですか?逃げる時間がなかったのですか?」と。答えは次のようだった。「地震の後、防災無線で避難命令が出たので高台の公園へ逃げた。しかし間もなくして“津波到来、波高は30cm”と無線から報じられ“ナーんだ、30cmとは低いな”と人々は家の片付けに戻っていった。そこに15mを越える津波がきた」
津波は本当に恐ろしい、第1波が高いとは限らない。そしてその破壊力は想像を絶する。石巻の高台から私も町を見下ろしたが、一面の瓦礫。その悲惨さに言葉を失った(写真5)。

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写真5 高台から降りると、そこは瓦礫の山

時間が許すまでギリギリ活動をし、石巻を後にした。しかし道路は大渋滞。原因はガソリンスタンドで、(閉店しているというのに)給油を待つ車が道をふさいでいるのだ。数えてみると500台を越える車だった。全てのコンビニ、ガソリンスタンド、そして自販機も休止。山形県に入ってようやく見つけた温泉で全身の泥を落として、はじめて人心地がついた。
来たときと同じ道で石川に戻る。宮城はもちろん山形も新潟も真っ暗だ。ところが富山に入るとスタンドには明かりが灯りコンビニが空いている。そして石川に入るとパチンコ屋やスーパーに煌々と電気が灯る。このアンバランスは何??? 同じ日本と思えない光景にいらだたしくなり、私たちは黙り込んでしまった。
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 今回は2泊2日という短い時間だった。しかし、行く前はテレビや新聞で見る映像が映画か何かのシーンのようにしか感じられなかったが、戻ってきた後は心の痛みを伴うものとして感じられるようになった。行ってよかったと本当に思う。現地の状況はおそらく日一日と変わっているだろう。ボランティアの状況も、このニュースレターが配布される頃には、全国から大勢の人たちが集まり、ニーズに応じて活躍していることと期待している。
みなさんにもぜひ一度現地へ行ってください。学ぶこと感じることがいっぱいあります。